OVA『あさがおと加瀬さん。』の柔らかい背景

 OVAあさがおと加瀬さん。』を見直した。昨年6月、一般発売に先立って劇場で公開されたのを見て以来なのでちょうど1年ぶりだが、やっぱり超良作。

 

 『あさがおと加瀬さん。』は、高嶋ひろみによる百合漫画シリーズである「加瀬さんシリーズ」をアニメ化作品である。どこか地方の高校を舞台に、植物をこよなく愛する内気な「山田」と、陸上部で活躍する人気者の「加瀬さん」という二人の女子高生の恋愛を描いている。アニメで描かれているのは、二人が本格的に付き合うようになった原作2巻目以降。

 物語の展開は超・穏やかだ。ラブコメにつきものの三角関係は生じないし、すれ違いから大ゲンカに発展することもない。二人が女性同士であることも、それほど大きな障壁ではないようだ。周囲には隠して付き合っていて、同級生にバレてしまうというシーンがあるのだが、そのときもすんなりと受け入れられる。実際、第1話は「私は初めて付き合うのが加瀬さんなので、女の子同士ということより、大好きすぎてどうしていいかわかりません」というモノローグで締められるのだ。地方の女子高生がごく普通に恋を楽しみ、恋に悩む姿を、ひたすら温かく描いている。

 

 近頃あまりアニメを見なくなっていた僕だったが、『加瀬さん。』を劇場で見たときは静かな感動があった。背景やエフェクトといった表現的な部分がまさに自分が求めていたもので、しかもその温かいストーリーにばっちりマッチしていたからだ。

 まず、十代の恋愛物語と、地方都市の風景を美しく切り取った映像という組み合わせに、真っ先に連想したものがあった。新海誠の作品群である。だが、新海作品と『加瀬さん。』の風景(背景美術)には大きな違いがある。新海作品の背景が見る者を圧倒するような緻密でフォトリアリスティックなものであるのに対し、『加瀬さん。』の背景は水彩風の柔らかいタッチで、しばしばハレーションを起こしたように一部が省略されている。

 

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 自分がよくアニメを見ていた頃(2000年代中頃から10年代前半くらい)、新海のようにデジタル技術を使って緻密な風景描写をすることは、アニメの質を図る最も有力なバロメータの一つと見なされていた。

 映画学者の加藤幹郎は、新海誠はその風景によって、アニメーションにおいてはじめてメロドラマを可能にしたと論じた。アニメーションでは顔の複雑な表情筋を表象し、そこに人間の内面を構築することは困難である。しかし彼は顔の代わりに、単なる記号へと変換できない情報量の多さによって抒情性を演出したというわけだ(加藤幹郎「風景の実存 新海誠アニメーション映画におけるクラウドスケイプ」、『アニメーションの映画学』所収)。

 フォトリアリスティックな背景という手法は、京都アニメーション作品をはじめとする深夜アニメ群に引き継がれ、それらをヒット作へと押し上げた。当時は深夜アニメの成熟期で、朝や夕方のアニメより上の年齢層をターゲットに、ボーイ・ミーツ・ガールと十代の寄る辺ない気分を描いた作品がたくさん生まれた。ちっぽけな少年少女の生と対比される、透き通った空やどこまでも続く田園風景の崇高な(sublime)イメージは、コンポジットソフトのようなデジタル技術の進歩と背中合わせで発展した深夜アニメというジャンルの、いわばシンボルだ。アニメファンにこそ意識してほしいことだが、こういう風景表現は世界的に見ても日本のアニメの歴史を見ても、全く普通ではない。

 しかし、いつしか僕はそういうイメージに飽きてきてしまった。それらの作品が売りにしている、殴りつけるような「切なさ」も、もうあまり脳が求めていない。刺激の強さが、かえって言い訳がましいような気がしてしまう。いい年をしてアニメを見ることのエクスキューズとして用意された「大人向け」のしるしに感じてしまうのだ。

 (話はずれるけど、「泣きゲー」がなぜエロゲという形態をとる必要があったのか、「セカイ系」と呼ばれた作品にどうして壮大なSF設定が必要だったのかということも、似たような理屈で考えてしまう。恋愛みたいな社会的儀式を避けて趣味に興じてきたオタクたちが、ラブロマンスに感動するためのねじくれたエクスキューズ。いやそれは本当にそうだとしても時代の要請だったと思うし、全然愛しいと思えるけど……。)

 

 そんな前提があって、『加瀬さん。』は十代の青春を描いたアニメの中でも違うものを感じたのだった。空や郊外の風景はたくさん映し出すけど、新海~京アニメソッドのソリッドで透徹した背景美術ではない。特別でない二人の初恋を見守るような柔らかいストーリーに、無限の世界を前にするような圧倒的な切なさの演出は必要ないのだろう。作品を「ベタ」に楽しむ時代になったと言うけれど、この作品はそういう時代の賜物だと思う。

 

 しかし、それだけでは『加瀬さん。』はそこまで特別な作品にはならなかったかもしれない。新海的な背景こそが特殊なのであって、水彩風の背景のアニメなどというものは昔からたくさんあるからだ。ここで、二つ目のポイント「エフェクト」が重要になる。

 同作では、さまざまな形の光のエフェクトが使われている。光の粒は、校庭の隅のなんでもない花壇の上で流れ星のように散らばり、キャラクターたちの身体を横切り、ときに泡のように画面を覆う。それらは、実際にカメラに写り込んだフレアやゴーストの表象と、恋する二人の心情を表現主義的に描いたもののあわいにあるかのようだ。

 

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 少女漫画風のタッチで描かれる同作の原作でも、「漫符」と呼ばれるようなエフェクトがさまざまに使われている。シャフト制作のアニメで多用されてきたように、そうした漫符をそのまま映像に移植することもできただろう。しかし、当たり前だがアニメと漫画は異なる。漫画が絵と文字(フキダシ)という互いに排他的な二つの記号を軸としているのに対し、アニメの画面は基本的に絵だけで成り立つ。アニメで漫符を描きこむのは、ともすれば画面の統一性を壊しかねない、実は結構冒険的な行為だ。

 そしてアニメにおいて、フキダシが描かれない代わりにより細かく描かれているのが背景だ。アニメ版『加瀬さん。』の背景が物語とマッチしたものであることは述べた通り。ますます、漫符はなるべく描き込みたくないということがわかるだろう。そこで同作では、キャラクターの心情表現としてのエフェクトを、光、つまり物理現象の再現という形で描き込むことで、広い意味で「背景の一部」にしようとしていると言えるのではないか。これは漫符というものの原始的な姿に立ち返る表現と言えるかもしれない。

 同作の光のエフェクトが、ぼかしのかかったCGのエフェクトではなく、作画による平面的な表現であることも、ペインタリーな背景美術の温かみが削がれずに済んでいる要因だろう。もっと言えば光のアニメーションが、ペインタリーで動かない背景と、平面的で動くキャラクターを馴染ませているように思えるのだ。

 

 そういうわけで、『あさがおと加瀬さん。』は今アニメで青春を描くためのアイデアがいくつも詰まった作品だと思う。百合漫画も一周回ったように優しい世界観のものが流行っている気がするし、こういう表現のアニメは需要あると思うけどな。

 11月に劇場公開予定のOVA『フラグタイム』も『加瀬さん。』と同じメインスタッフで制作されるらしく楽しみ。

 

※今回、視覚表現に絞って書いたが、ピアノを多用しつつハイトーンでエコーのかかった「泣かせ」のアレンジにはしない劇伴も良かったので、注目して聞いてほしいです。